珈琲は芸術か

芸術とは何かという問いについて、人が生き抜くために必要不可欠なものという説がありますが、私も支持しています。

コロナ禍で閉塞的な生活を強いられた時期は、美術館や映画館、コンサート会場などが閉鎖され、芸術に直接接する機会を失った結果、多くの人がその必要性を実感したと思われます。

芸術の特性として明らかだと思うのは、芸能のように他人にウケることが目的としてではなく、創作する人が作りたいものを作る、すなわちその人が人として生きるために、その存在を表現するために行う営みこそが芸術なのでは思います。

そして、創作された作品に接した人が、感動や感銘を受け、喜び・悲しみ・怒りなど人間が本来普遍的に持つ感情を呼び起こされることこそ、その芸術が持つ価値を高め、場合によっては創作者本人以外の人にとって生きがいになることもあります。つまり双方向性のある作用と言えます。

そのような理由で、芸術は人が人として生き抜くために必要不可欠なものであると考えます。

さて、珈琲が芸術であるかについてですが、私は葦島の珈琲は芸術であって欲しいと思っています。

なぜなら、珈琲は私にとって人生を生き抜くための存在に他ならないからです。

それは単に生活する糧の手段として珈琲を扱うことだけでなく、珈琲を作ることそのものが私にとって最良の表現方法であるからです。

そもそも私が葦島を作ろうと考えたのは、自分の今までの人生で大変辛かった時期を支えてくれたものが、家族以外では珈琲であったからです。さらに正確に言えば、珈琲を飲みながら過ごすひとときが生活に潤いと豊さと安心をもたらしてくれたからです。

このかけがえのない珈琲というものを、いわば概念として一旦抽象化し、今までの経験智を濾紙として具現化したのが「喫茶葦島」であり「葦島珈琲」です。

大切なのは、芸術家が納得のいくまで作品を仕上げるのと同じく、お客様に喜んでいただける珈琲を実現できるまで、納得のいくまで細部にこだわることだと思います。まさに細部にこそ神宿るです。

この点、他者であるお客様の喜びを目標にしていることで、それは芸術ではないと言われるかもしれませんが、私にとっての珈琲とは、単に飲み物としてではなく、人間らしく豊かに人生を生きていくための時間を与えてくれる存在です。そのような存在を自らの全てを注いで作りだす行為は芸術でありたいと常に考えています。

そのような個人的創作物が果たして広く世に受け入れられるのだろうか、という慎重さは芸術家にとっても重要な姿勢とは思いますので、純粋な主観的創造物と言うよりは、客観的かつ主観的創造物であるべきだろうと考えます。

以上の理由により、私にとっての珈琲は芸術であると言って良いでしょう。